道楽者の詩

写真とカメラ、山登り、ジムニー、ギターをはじめ、日々の私情をつらつらと

何の目的で風景写真を撮っているのか、再考してみました。

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仕事を辞めてまで、道楽で、遊びで写真を撮りたいだなんて、どうしてなのか改めて考えみました。理解してもらいたいわけじゃなく、今の自分を振り返ってみたくなって考えてみました。

元々写真撮影だなんて、全く興味はなかったのです。それどころか、失礼なことに「おたくさん」と揶揄していた記憶もあります。

とはいえ昭和30年代前半、自宅の一室には親父が使っていたDPE用具が一式あった。中学生の時には学校の暗室を借りて、引き伸ばしプリントなどをした事もあった。しかしながら、取り立てて興味があったわけじゃありません。

初めてまともなデジカメを買ったのは、2005年のことでした。仕事を辞めて自宅に引きこもっていた頃、状況打開のためにまずは外に出なくてはと考え、当時4万円もするコンデジを買って屋外に出るという(自分に対する)口実を作ります。こうして自分を納得させて屋外を出歩きはじめて数日もすると、完全にはまってしまいまして、翌月には一眼レフを買い、その半年後にはさらに追加で一眼レフを買ってしまっていました。

最初の頃は、スナップ写真を撮るのが楽しかった。
「やれ納期がどうだ」「コストがどうだ」「正解を出せ」などと、信頼できぬ上司とやらの命令に屈していわゆる左脳を優先した生活を送っていた私はほとほと疲れきっていた。その上自分では「右脳<左脳」と信じていたのでタチが悪かった。詳細は割愛しますが、ヒューマンセンサーの測定結果などから、気持ちを楽にさせるためには右脳の活性化を検討すべきとアドバイスされていたその頃、写真という「正解は一つじゃない」という遊びは心地よかったのかもしれない。写真は天気のいい日に撮るだけじゃない、「雨が降ったら、雨の日の写真を撮ればいいじゃないか」、「日が暮れたら、夜の写真を撮ればいいじゃないか」と思えてくると、ますます闇の中から脱出していけるのではないかという希望を感じることが出来るようになりました。

誰の目を気にすることなく、誰に命令されることもなく、誰の批評を気にするでもなく、「撮りたい時に、撮りたいところに行って、撮れるモノを、自分のために撮ったらいいじゃないか」と思えたときは一歩抜け出せたと思ったものです。

 

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スナップ写真というと、お手軽・お気楽写真と言い換えてもよさそうですが、本来は「ある一瞬を写し取る」といったかなり専門的なジャンルです。ピント合わせなども、カメラのオートフォーカスじゃ間に合わないので、距離を決めておいてそこまで近づいて撮るなどという職人技を使っていたこともあります。私が好んでいたのは、町をぶらついて、人間ウォッチング、タウンウォッチングをしながら、思わずタイトルが先に出てくるような状況を見つけて撮影するスナップが好きでした。撮影した写真をモニターで見ながら、自分でタイトルをつけてニヤニヤしていたのを思い出します。

きっかけがこのようなことですから、コンテストなど「競う」という要素のあることにはストレスを感じるので、興味や関心を持たないようにしました。今なおどちらかというと避けています。それならということで、写真ブログに掲載し始めたのが2006年ごろでしたっけ。

ところが昭和時代とは違い、肖像権などといわれるものが世間を騒がせており、自由にタウンスナップを撮るのは困難な状況だと知ります。迂闊に撮影していてはまずいし、軽率にネットに掲載する事もできません。マンションを含めた空の撮影をしていて警察沙汰になった知人がいますし、私も空を撮っていてエライ叱られたことがあります。

 これはやっとれんと感じ始めていたころ、滝の撮影に誘われました。そこからいろいろと心境の変化はあったのですが、いわゆる風景写真を撮ろうとし始めました。しかし性分的に風景撮影を受け入れることが出来るまでにはかなりの時間が必要でした。

 

待って撮る、狙って撮るのは苦手

風景写真の定義は諸説あるようですが、まずは先に出来上がりの設計図が出来ていて、それに見合う場面が来るまで待って撮るというのが基本のようです。ですので、位置を決めたカメラを支えておくために、必ず三脚に乗せて待っておく必要があるのです。

なにぶんイラチな性分ですのと、意図した結果が得られなければ「失敗」となるわけですから、これは私の「正解はない」「~な写真を撮ればいいじゃないか」という信条とは大きくかけ離れることなのです。

三脚は使いたくない

持ち運びは大変ですし、三脚をたくさん立てて並べて撮影している人たちを見ると、あまりいい気分ではありませんでした。端的にいえば滑稽であり、邪魔ですよね。あれを自分がするのかというのは抵抗がありました。

そして、写真教室という名目でたくさんの三脚が立ち並び、皆さん同じ方向に向けて、同じ被写体を、同じ設定で撮っている光景が忘れません。「ここではどのレンズで?」「絞りはいくらで?」などと質問をしている生徒さんを見ていたら、おもわず「それを聞いてどうする、自分で考えるのがおいしいところだろ」と発してしまいそうになりました。そんな風に見られるのはイヤだな、とおもって幾年月。やってやれないことはないですが、いまだにたくさんの三脚を立てた一人になるのはちょっと気が引けています。

季節がどうこう言いたくない

これがなかなか受け入れない私はひとえに未熟者です。どうしても「じじくさい」「年寄りくさい」と感じてしまうのです。どうしてもそれがイヤだったのですが、気がつけは十分にジジ臭くなってしまいました。他人から見れば十分に年寄りです。

 

いまさら絶景なんて撮れないよ

現在ではエベレスト登頂でも、戦禍の中にも撮影隊が入り込んでいく時代、自分だけの写真なんか撮れるわけがない。

 


この辺りのことを払拭するのに時間はかかりました。

 

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写真撮影にもいろいろとジャンルがあるようで、一般的な記念写真から、人物撮影、広告写真、報道写真、建築写真、風景写真、ネイチャー写真、スナップ写真など、分類の仕方には諸説あるようです。そのようななかから、スナップ写真の次に自分が楽しめそうで、心が穏やかでいられそうなのは、いわゆる風景写真です。しかしストイックにこれを突き詰め始めますとかなりのストレスを感じますので、風景スナップも含めて、いわゆる風景モノの写真を撮っています。

実際滝の写真なんて、出たとこ勝負なことが多いです。氷瀑とか、水量豊富な雪融けとか、なかなかそんな都合よく訪れることが出来るものではありません。それなりの準備と体力が必要です。しかし、競い合って場所取りをしないといけないような景勝地でのご来光撮影などと違い、滝撮影には非常によいことがあります。適度に自然とふれあえ、適度に運動をし、適度に冒険をし、被写体の前では日常の喧騒を完全に忘れて、一人で心からくつろぐことができるのです。ほとんどの場合、その景色を独り占めできるのです。

 

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何に幸せを感じるか、心からくつろげるか、それは人によって違います。自分の場合は「今は何もすることがない -> 今は、しなくてはならないことが何もない、自由だ」と感じられることが最大の幸せです。若かりし頃は、自ら「いつまでに、これだけのことをしなくちゃいけない」などと言い聞かせていて八方塞になっていた事もありますが、年齢を重ねることでその呪縛からは抜け出せました。

定年になって仕事を辞めたとたん、何もすることがない、何をしていいか判らない、何かしなくてはいけない、というお悩みを聞くことがありますが全く信じられません。したいことは腐るほどあるにもかかわらず、他人からは何の強制も無いというのは、最大の喜びです。

一人で写真を撮っていると、何の制約を感じることなく、心からくつろげています。その心境にどっぷりと浸るために、自由に時間を使わせてもらいたいと思っています。「何の目的で風景写真を撮っているのか?」、そんな野暮なことは尋ねないで欲しいものです。

 


体が普通に動くのもうそんなに長くはないでしょう、カウントダウンに入っているかもしれません。これまで人並みに辛いことが多かったのですが、自分のために時間を使わせてもらいたいなと思います。自分の気持ちが満足を感じることが出来れば、他人との接し方にも変化があるかも知れません。退職金もストックもないのですが、自由を求めることにしました。